昭和47年11月27日 朝の御理解
中村良一
天地書附
「生神金光大神 天地金乃神一心に願え おかげは和賀心にあり 今月今日でたのめい」
御道の信心の成就とでも申しましょうか。御道の信心が、例えば、成就するといったような言葉で言うなら、この天地書附が生神金光大神の御取次ぎによって、天地金乃神様の願いが成就する。いわゆる、金光教の信心が成就する。そういう風に感じますですね。例えば、ほんなら、私が、この和賀心一つに、日々の信心生活を、そこに絞らせていただいて、本当に、どちらへ転んでも、いうなら、降っても照っても、寒くても暑くても、私の心の中に、喜びがいっぱいであるとするなら、もう、天地金乃神様の願いがね、私のうえに成就したことになるのです。同時に、教祖金光大神の御取次ぎによって、それが、なされるときに、金光大神の願いもまた成就することになるのです。素晴らしいことですね。この天地書附。
この天地書附というのは、後で、天地書附という風に読むように、まぁ、なったわけですけれども、これはだから、金光大神の願いが成就する。天地金の神様の願いが成就する。また、氏子の願いが成就するということにもなるほどしの、大変な御教えですから、このところが、いよいよ、もう、一生がかりで、ここに焦点を置いたらいいのです。金光様のご信心は。ね。だから、そのためにはです。そのためには、どういう信心をさせていただいたら良いか。「おかげは和賀心にあり」と仰せられる。これは、おかげと言うのは、私共が頂くおかげと言うだけの意味じゃないわけです。天地の親神様が、おかげを受けてくださることであって、金光大神がおかげを受けてくださることである。私共が、おかげを頂くということなのである。と言うほどしに、このおかげと言うのは、素晴らしいおかげの意味があるんですね。それを、「今月今日でたのめい」と。それをもう、私共は、日々です。このことを願い続けさせていただき、この事を、願わせていただくための修行、ね。その、今月今日で頼むということがです。そういう大変なことが成就することのために、私共が、信心修行させてもらうと。
昨日、日曜ですから、特別奉修委員の方達の、御祈念が、まぁ、日曜にございますんです。そのお取次ぎをさせていただいた。大体この、特別奉修委員と言っておりますが、特別奉修委員の方達が思い立たれたのは、私がこうして、何時も、身体が弱いもんですから、どうぞ、親先生の健康のおかげを頂いて下さるようにと言うのが、願いの発端でございましたもんね、この会が出来ます。ですから、どうでもその、親先生が健康になって頂きますようにということと同時に、それが、段々、願いがもっと大きくなってまいりまして、教会の運営と言うか、教会の発展という事ですね。例えば、あぁして、御造営なんかの、教会的行事がございますと、その教会的行事のこと。ね。大祭がある前には、大祭のことを願われ、御造営の時には、語造営のことを願い続けて、しかもそれを、毎朝、こうして朝の御祈念に参ってみえる方達で、ほとんど、まぁ、出来ておるわけでございますけれども。また、改めて、改まった時間で、改まったお取次ぎを頂いて、そして、親先生のお取次ぎを頂いて、おかげを頂きますようにというのが、特別奉修委員の方達の、まぁ、願いなのです。そのために生まれたと言うていい訳なんです。ね。いわゆる、自分のことだけではない、ね。親先生のことを中心に、いわば、自分のご縁を頂いておるところの教会の真の発展。しかもその発展が、教団の発展につながるというだけではなくてです、ね。世界中に、和賀心時代を作ると言われる。その和賀心時代を作らせて頂くことのために、繋がるほどしの信心。ね。世界の、いうならば、総人類の、本当の意味においての幸せに繋がる。それは、私共、一人ひとりが、ここんところを目指して信心させていただくということは、もう、私一人の心の中に和賀心。私の家庭の中に、私共のおかげを頂いておる教会の中に、その周辺に、段々、それに繋がっておるわけです。だから、大きく言うと、世界真の平和に繋がっておるほどしの願いが、その内容にあるわけなんです。特別奉修委員の方達の祈り、願いというものは。ね。その事を、特別に、祈念祈願をなさっておられるわけであります。そういうお取次ぎをさせていただいて、御祈念させて頂いておりましたら、あの頂きますことがね。
これは何か、私共、子供の時に、ようあの、遍路さんたちが、あの、角々に立って拝まれる。そん時に言われた言葉のように思うんです。よく知りませんけれども。それのような意味のことなんですよね。この功徳をもって、あまねく至上に及ぼしか、ね。一切に及ぼし、仏道成就することと言うようなことを頂くんです。ね。この功徳をもってと言うのはです。自分のことのためなら、お供えしてでもお願いをするけれども、それを、人の事のため、いや、人の事だけではない。天下国家のことのためにです、ね。例えば、それは、僅かづつではありましても、それを集めて、例えば、お供えをして取次ぎを頂いてお願いをなさる。この功徳、ね。その功徳をもって、あまねく一切にです、及ぼしていけれる。そういう信心こそがですね。あの、仏道を成就することだと。いうなら、信心を成就するということは、そういうことなんだという意味に、私は、昨日、聞いて頂いたんです、皆さんに。
お互いがね、あの、めいめいの信心が成就していくということはね。ただ、自分たちが、一生懸命お願いをして、自分のおかげを頂くというのじゃないのです。それは信心が成就しよるとじゃない。ね。それこそ、自分の周辺のことは、言うに及ばず。それが、ひいては、天下国家のことに及ぶほどしのです、ね。しかも、それを、真心をもって、祈らせていただく時に、その功徳をもってです。ね。もう、天地の隅々にまで、その働きと言うものは及ぼしていくものだと。そういう願いが出来るようになる時にです。ね。いわゆる、信心が成就していくということが言えるんです。それがもう、こりゃ限りが無いことですね。そういう祈りがもう、祈りに祈り抜かれていくという事。
お互いの信心の成長を願わせていただくのでございますからです。ね。本当に、そういう尊いことが、真剣に祈れれる、一つ信心を頂かせてもらう。いわゆる、今月今日で、一心に頼ませていただく信心。私は、そういう天下国家のことまでがです。一心に願われるという事。いや、願わなければおられないという心。そういう心こそですね、私は和賀心だと思うですね。それが、そういう事が祈れれるという事は、ね。素晴らしいこと。勿論、ここに字に現してありますように、和賀心とは、和らぎ喜ぶ心とこう、ね。ただ、本当の意味においての、和らぎ喜ぶ心。ただ、自分だけが悦にいっておるというのではなくてね。信心が、例えば、成就していく。本当にですね、真剣にね、例えば、特別奉修委員の方達が、例えば、私のことを祈って下さることも切である。どうでも健康になって頂きたい。長生きのおかげを頂いてもらいたい。ひいては、それが、教会の発展を願われることになり、御造営成就のことを願われることになり、世界真の平和を願われることになり、ね。それがあの、信心が成就していく。ね。その功徳をもってです。そういう事が祈れれるという事。ね。それを祈れれるという事がです。もう、私はすでに、和賀心だと思うです。先生が、あげん言いなさったけん、ほんなら、今日からいっちょ、天下国家の事ば願おうというたんでは、これがいけないのですよ。口で言うだけならば、ほんなら、拝詞を皆さんが唱えておられましょう。世界真の平和、ね。世界総氏子の身の上安全というふうに、これは祈っておられるんですからね。そのことがね、もう本当に、それと特別奉修じゃないけれども、そのことが祈らずにはおられないという心なんです。唱え言葉じゃないです。もうその、祈らずにはおられない、その心こそが、和賀心なんです。だから、そういう事になったら、もう、絶対、おかげはもう、いわゆる、ここで言う、その、人間の、いうなら、幸福に繋がらせて頂く事のためのおかげは、もう、請け合いと言うて良いでしょうね。間違いない。そういう、例えば、信心、真の世界ですね、いわゆる、信心の世界がです、ね。私だけの上のことではなくて、これが、ね。世界に広がっていくということを願わしてもらうという事。
よく、味を占めるというような事を言いますね。こりゃ、良くない言葉の時に使います。ね。乞食を三日すれば止められない。いわゆる、味を占めたわけですよ、ね。遊んどってから、ただ、座っとってから、どうぞどうぞと、こういや、ね。食べていけれるだけではなくてです。もう、こげん気安いことは無い。それでいて、その、金が貯まるという。ね。いわゆる、乞食を三日すりゃ、止められないといったようなことは、味を占める。
猫やら、犬やらが、魚の置き場所なんかを知っておりますとね。必ず、こうやって来るです。人間が、油断しておる時には、それをぱっと取って行って、いわゆる、味を占めるわけです、ね。そういう、例えば、味をしめるという事はね、悪い時に使うのですけれども、それをね、私は、有難いことのほうへ使わせる。味を占める。どういう味を占めるかと。ね。いうならば、朝参りの味を占める。どうでしょう。とても、とてもとても、朝参りさせてもらわなければおられない、ね。
そんなら、合楽の加藤さんなんかは、朝参りの味を占めていきよりなさるとこでしょう。ね。まぁだ、信心は浅い。けれどもです、もう本当に、こういう有難い神様が、足元に居られたのに、どうして知らなかっただろうか、分からなかっただろうか。毎朝、毎朝頂く、この御理解、御教えがです。もうそれこそ、もうぐいぐい、血に肉になっていくことを感じるほどしに、日々、有難い。いわゆる、朝参りの味を占めておられるわけです。ね。
次には、修行の味を占めなければいけません。ね。もう、きつうしてこたえん。ほんとうに、どうしてこげな修行ば、何時まっでん、せんならんじゃろうかと言うのは、これは、修行の味が分かっとらんのです。修行の味が分かったらもう、本当に、させてもらわなければおられない。いわゆる、味を占める。ね。どうでしょう、私共が、本当に、難儀の味が分かってくるようになったら。もう、あなたは助かったというて良い訳です。ね。
あぁ、この難儀から脱却したい。あぁ、この難儀から逃れたい。ね。その逃れたいばっかりに、一心にお参りしよる、拝みよるというようなのじゃないのです。ね。いわゆる、その難儀の味わいというものが分かる。いわゆる、難儀の味を占めるという。ね。だから、これは、だから、良い意味合いにおいてです。味を占めたわけです。私は、金光様のご信心は、どうでも、今、私が申しますちいうのはね。例えば、朝参りの味を占める。もう、朝参りの、その味わいというものをね、分かる。それから、ほんなら、朝参っただけじゃない。一日のうちにです、どういう例えば、修行があってもです。もう、それこそ、味を占める。例えば、難儀なことが起こったら、にやっと、もう心の中じゃ笑わにゃおられん。ね。味を占めとるのですから。とても、こういう、例えば、ほんなら、難儀なら難儀の味を占める。とても、こういう素晴らしい難儀を、私がいただき抜いた時に、もう、次に頂くおかげがもう、目に見えとるもんですから。味を占めるとは、そういう事なんです。ね。修行させていただく喜び、朝参りの喜び、ね。難儀に直面した時に、それを難儀とせずに、いわば、神愛とうけれれる。御事柄として受けられる。
昨日、ほんに、御事柄といや、昨日、また本部から、手紙が来ました。それにこう、先日、永井幹四郎(かんしろう)という先生が、有名なお徳を受けた先生がおられます。今、学院で、学官をなさっておられます。なかなか、御神徳を受けられて、またはあの、学問も高度な学問を身に付けて、現在、もう、前の教官の、佐藤博敏先生の教官の時代に、学官をしておられて、今も、それをまぁ、続けておられるのです。その学官が、教導の科目の時に、親先生の、私の、和賀心時代をテキストにして、御教えを頂いたと。もう、お話を頂きよりましたら、親先生が仰るとおりのことを仰ったと言う手紙が来ました。しかし、素晴らしいことですよね。この頃からは、佐藤博敏先生、川上先生。いわば、今の金光教切っての偉い先生方、学院でも。しかも、学者で通っておられる先生方ばかり。このこんどの、昨日、ここへ来とります手紙も、その学官のお話がね。和賀心時代を作るという、その教導。
今までは、高橋正雄先生の信心には、この難儀を受けるというね。難儀という事にも、そこんところを少し読んでみましょうかね。「十八日の授業の第一時間目に、教導の時間で、永井学官が、親先生の信心を、講題にして話してくださいました。信心には、度胸が必要であることを中心に話されました。難儀は、それ自身を、一切合財受け抜くことによって、その難儀、そのものが、神のご都合によるものだと。また、神様は、その人の力を試すための、力以上の難儀を下さるようであるが、それは、絶対、その人が受け切れるものであり。」この辺のところが素晴らしい。「お互いが、難儀を神様が下さるという事。その人が、受けきれるものであるという事。」その人が受けきらないことを、神様は、問題出しはしなさらないという事。こっちがその気になればね。そのところが、後に、かかわってくるわけです。「受けれるものであり、それだけの力を持っておるから下さる。難儀だと頂けば、その難儀を受け抜く力が出来てくる。そこに、その人の信心の、いっそうの飛躍があり、度胸も出来、だから、一切の起きてくる事柄は、神様のお恵みと頂くならば、その事柄に、御の字をつけて、御事柄として頂いていく時、難儀が難儀では無くなる。成り行きを大事にいただいていく事だと、まるで、親先生の仰せられますこと、そのまま話してくださり、この信心精神こそ、われわれの学ぶべきものだと、私は、涙が出て仕方がありませんでした。以前に、高橋正雄先生が、難儀の中にも弱点があると言われた、そのことの説明にあった時に、私は、親先生の仰せられます、難儀を難儀と思わず、神様のご都合と頂けば、むしろ有難く思えるのではないでしょうかと言った時、それは、非常に、高度の信心の出来た人でなければと、言われたことがあります。」この辺のところがね、大変変わってくるわけです。今までは、こらもう、高度な人でなからにゃ出来んと、高橋正雄先生自身が仰っておられます。ね。そのころ、もう最高峰ですはね、金光教の。けれどもほんなら、合楽の先生の話を聞くと、そうじゃない。いわゆるここで、取次ぎ者に対する、その稽古をしておる学院生に、ね。これを学ばなければと言うておられます。ね。今のところで、分かられたでしょう。あの、だから、今、私が申しておりますことは、そういう、例えば、素晴らしいことという事が、もう分かりにわかっとるんだ。頭で、ここで頂きぬいとるんだから。
だから、もう、そのことに対する、味を占めても良い頃ではないかという事なんです。ね。朝参りの味を占める、修行の味を占める。本気で、真心一心での修行ばしてごらんなさい。もう、本当に修行の味とか出てくるんです。ね。難儀の味を占める。もう、ここに至ったら、素晴らしいことです。だから、そういう事は、普通では出来ないとまで、例えば、思うておったのがです。全部変わってきたのです。ね。御事柄とか、成り行きとかと言う言葉を使うて、説明しておられるわけです。御の字をつけなければおられないほどしに、有難いことだという事になるのです。例えば、その難儀な事柄でありましてもです。それに、御の字をつけなければおられないほどしの、ご真意であると言うことをです、分からして頂く。ね。そういう、例えば、信心。
生神金光大神天地金乃神一心に願う。金光大神のお取次ぎを頂いて、天地金乃神様の、言うならば、お心を分からせてもらい。そのお心に対し奉るところの信心、ね。それを、例えば、私共が、ね。頂くためにはです。いわゆる、修行の味を占める、ね。難儀な味が分かる、ね。朝参りの味が分かる、日参の味が分かるところまでです。私共の、その、おまいりなし、その修行なりに、真心が打ち込まれなければ、味は出てこんのです。いわゆる、噛みしめなければ、味は出てこんのです。ただもう、朝参りば、十年続けておりますとだけじゃいかんとです。ね。惰性のようなもんじゃいかんのです。真心一心の、例えば、その受け方と言うものでもです。ね。いわゆる、天地金乃神様のお心を、お心とするという事は、そういう受け方が出来た時じゃなかろうかと、私は思うのです。ね。修行の味が分かる、ね。朝参りの味が分かる、難儀の味わいが分かる、いわゆる、味を占める。味を占めたら、はぁ、この次に、このところ通ったら、どげなおかげの受けられるじゃろうかと思うような、ね。もう、絶対、そのおかげの受けられるほどしのおかげを、その受け方じゃ無からなければです、味を占めるというようなことにはなってきません。ね。難儀の味を占める。それをお互いは、そうではなくて、その難儀がもう、苦しくてたまらん。もう、眠うしてこたえん。きつうしてこたえん。ばってん、こればお願いせんなんきん、朝参りばしよるといったようなことからです。お互いの信心が始まるのですけれどもです。ひとたび、自分の心が、本当のおかげに向かずに、信心に向いた時です。ね。天地の心が分かってきた時です。神様の心が、少し、分かりだしてきた時です。そのお心に、添い奉ろうと思う心。ね。そこで、天地の親神様の、なら、願いと言うものがです、そういう、ほんなら、和賀心に向かわせていただく心。いわゆる、難儀を難儀と思わずどころか、難儀を有難いと受けれるような氏子がです。世の中に、いっぱいになることが、神の願いなのです。ね。ですから、さっき申しますように、特別奉修委員の方たちがです。天下国家のことまでも、ね。特別のご祈念をさせて頂いて、特別のお供えをさせていただいて、そのことが祈らなければおられないというほどしの心をです。天地金乃神様が、お喜びくださるはずは無い。それに変わっていただく心が、和賀心だと、今日は聞いていただきました。ね。だから、信心が成長しなければ、とても、人の段じゃなか。自分のことでいっぱいなのだからという事なんです。ね。けれども、段々、ひとつ、おかげを頂かせてもらいましてからね。修行の味を占める、ね。難儀の味を占めるというところまで、お互い、おかげを頂かせて貰うたら、いわゆる、和賀心は、おのずと育ってくる。ね。それが和賀心。もう、そういう心には、もうこれは、いよいよ、おかげが頂けれる事になるのです。合楽の信心は、どうでも、そこんところをいただかにゃいかん。
今日は、私は、阿倍野の先生のことを、頂かせてもらうために、お願いさせて貰いよりましたらね。私が、あちらへ参りましてから、泉南の教会で、明日、阿倍野に連れて行ってもらうといって、その事をお願いさせて貰いよったら、もう、それはそれは、ほんに、ここのお広前いっぱいあろうかと思われるような、大きな藤の木があって、その藤に、もう見事な、藤の花がいっぱい咲いておるところを頂きました。もう、それこそ、下から見上げる花ですはね、藤の花といや。それが、あの、今の阿倍野の信心。今、ゴヒレイの姿である。けれども、この柱が、一本、ちょっと、よがんだり、倒れたりしたら、もう、そこから、こう落ちてくる。ね。藤棚が。その柱が、御信者さんの、その柱の一本一本が、例えば、大事だというようなことを頂いておりましたが。今日、私、その事をお願させて貰いよりましたらね、あの、阿倍野の先生が、入江孝子と言う女優がおりますね。に、こう、変わっていかれるところを頂いたんです。どういう事だろうかと思うたら、あの、入江孝子の若い時分ですかね、私共、青年の時分に、もう、それこそ、最高の女優として君臨した時代がありますよね。けれども、どういう事になりますか。段々、ね。落ちぶれてくるというと、なんですけど、年をとってくると言いましょうか、に従って、言うならば、あの、猫化け騒動のような、あげな女優にしか、出られん様に。あの女優が、あの、化け物映画に出るときは、最後と言われとりますですね、女優は、命が。もう、あれは最後の時だと、言われるようにその、ほんなら、今でも、時には出ると致しましても、なら、その人気と言うものは、もう、地に落ちてしまっているわけでしょう、ね。ですからね、綺麗で若くて、演技が素晴らしいという、しかも、若さがあるという時なら、女優の、もう最高の、言うならば、人気絶頂の時なんです。今は、阿倍野の場合なんかは、そういうときだという事。ね。けども、阿倍野が、ほんなら、今のままであったら、先生が、ほんなら、亡くなられたら、それこそ、柱が欠けたり、いわゆる、段々、こう年をとってくるとと言う意味、映画女優の場合は、そうですけれども。んー、ゴヒレイが、言うなら、落ちだしたら、地に落ちていくというあり方なんです。ははぁ、それで、とにかく、阿倍野の信心の全てという事じゃないのだと。阿倍野の信心の、本当に、教祖様の御教えを、そのまま実行し、実行させておられるというところを、私共は、頂くのであって、阿倍野の全てを頂くというのじゃないですね。
そして、次に頂いたのが、昔、皆さん、知っておられるでしょう。この、酒井米子と言う女優がおりましたよね。というのを頂くんです。ね。合楽の場合は、どうしても、この、酒井米子で無からなければいけないのです。例えば、こう先生のお話を頂きますと、もう、記念祭なら記念祭が終わる前から、次の記念祭のことが願われておるですね。いや、五年間も、みっちり、願って願って、願いぬいて、願いどおりのおかげを頂くというのが、阿倍野の信心です。願うという事は。ね。だから、願うという事は素晴らしいけれども、私共が、願うというのは、一心に願え、おかげは和賀心にありと言うのはね。一心に願えというのは、和賀心になることを願うのであって、合楽の信心は。
酒井という事は、あの、お酒の酒と言う字が書いて、井戸の井です、ね。酒と言うのは、有難き、勿体なき、恐れ多き戸いうでしょうが。しかも、井戸から湧くように頂くという事なんです、酒井。米子と言うのは、米の子と書いてあるですはね。いわゆる、あの、ままになるという事。合楽の場合は、どうでも、この、有難い、勿体なきが、湧くように頂けて、それに、これはもう、願わんでも、頼まんでも、ままになるところのおかげを受けるというのが、もう、合楽の独壇場です。だから、それをですね、本気で身に付けなければね。だから、合楽の信心は、ただ、素晴らしい、素晴らしいと言うとるだけじゃつまらん。ですから、ほんなら、今日、私が、皆さんに聞いて頂くような所をです。本当に、身に付けさせて頂くという事なんですね。朝参りの味が分からんなら、もう少し、本気でです、ね。もう、有難うして、有難うして応えんで、朝参りが出来るというところまで、もう少し、修行精神を旺盛にせにゃいけんです。もう、やっとかっとち言うごたる朝参りじゃ駄目です。ね。だからそこに焦点を置きなさい。なら、修行でもそうです。色々修行を思い立たせていただいとるならば、それに、真心をこめて、一心に修行してごらんなさい。もう、修行から出てくるところの答えというものを、味わうたらです。もう、修行の味を占めさせて頂けるのです。ましてや、その、難儀と、普通では言うその難儀にです。ほんなら、事柄にです。御の字が付けられるほどしの信心を頂けたときです。ね。頂けるのが、有難き、勿体なき、恐れ多きの心です、ね。いわゆる、酒井である。酒の井戸と言う意味なんです、ね。汲んでも汲んでも尽きぬほどの、有難いものが湧くほどしの、その原動力になるものがです。今日、私が、聞いて頂いたお話なんです。ね。合楽の場合は、ここんところを身に付けていくという事以外、もう大変難しい、高度だ。
例えば、ほんなら、そういう事は、今まではもう、出来ないように、ほんならその、金光教の最高の人たちが言うておったんでしょう。ところが、この、和賀心時代と言う本ができて以来と言うものは、ほんなら、学院の先生方が、これは、可能だという事が分かってきた訳です。御事柄として受けていく、成り行きを大事にしていけれるという事が、ね。そこに、信心の度胸も出来れば、お徳も受けられるというような説き方になってこられたという事なんです。ね。ですから、ほんなら、これを皆さんは、ずーっと、頂いておられるわけですから、それをやはり、自分のものにしなければ駄目だという事。そのために一つ、ね。難儀の味を分からせて貰うという事。それが、本当の意味で、御事柄として受けたときが、私は、難儀の味が分かった人の、難儀に対するところの向かい方だと思うんです。ね。
どうでも、私は、あの、阿倍野の信心の、いうならば、なんと申しますかね、正確に、教祖様の御教えを、もうそのまま、理屈くくつを言わずに、それを行じさせて頂くという事をね、頂かせていただくのだけれども。もう、一番、素晴らしいことは、なら、合楽の生き方を、本当に身に付けたら、こらもう、限りが無いこと、ね。そして、結局は、和賀心に絞られるという事。ね。和賀心とは、そして、私共、ね。この功徳をっもって、あまねく至上に及ぼし、ね、仏道成就することと言うこと。ね。そういう信心を、お互いが、もう、身に付けていかなければならない。お互いの信心の、祈りの内容というものを、一つ、思うて見てください。せめて、特別奉修委員の方達がやってるくらいな祈りはもう、実感として出来れるくらいに、育っていかなければならない。しかも、その祈りがです、世界真の平和に繋がるほどしのものでなからにゃいけん。ね。そういう事が、祈らなければおられないという心こそが、和賀心だと、今日は、聞いて頂いたわけですね。どうぞ。